ヴィシー(Vichy, オック語:Vichèi)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、アリエ県のコミューン。温泉保養地。第二次世界大戦期にはヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。
Vichy | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 |
県 (département) | アリエ県 |
郡 (arrondissement) | (郡庁所在地) |
INSEEコード | 03310 |
郵便番号 | 03200 |
市長(任期) | フレデリック・アギレラ (2020年 - 2026年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté d'agglomération de Vichy Val d'Allier |
人口動態 | |
人口 | 24 992人 (2011年) |
人口密度 | 4272人/km2 |
住民の呼称 | Vichyssois, Vichyssoises |
地理 | |
座標 | 北緯46度07分40秒 東経3度25分36秒 / 北緯46.1277777778度 東経3.42666666667度座標: 北緯46度07分40秒 東経3度25分36秒 / 北緯46.1277777778度 東経3.42666666667度 |
標高 | 平均:m 最低:243m 最高:317m |
面積 | 5,85km2 |
Vichy | |
公式サイト | http://www.ville-vichy.fr/ |
モンリュソンに次いで県第2の人口を持つコミューンで、地域圏内ではクレルモン=フェラン、モンリュソン、オーリヤックに次いで第4位である。
歴史
アンシャン・レジーム時代、ブルボネ州に属した。1861年から1866年のナポレオン3世の時代に再開発が行われ、街の様子は一変した。新しい大通りが通り、アリエ川沿いに堤防が造られ、公園には1865年に建築家Badgerによって巨大なカジノが造られた。
第二帝政の後、ベル・エポックによる二番に大きな建築ラッシュが起きた。1903年にオペラハウス、ホール、東洋風に設計された大浴場がオープンした。
ヴィシー政権
1940年6月22日に署名された停戦条約の後、この区域はドイツには占領されず、フランス国 (État Français) の名前で、7月1日にヴィシーを首都と定めた。理由は比較的パリに近く (列車で4.5時間)、温泉地であるためホテルの収容人数が多く、臨時の官庁及び官舎を置くのに都合が良かったためである。当時のホテル収容人数は国内第2位であった。その上、当時では超近代的な電話交換機があり、電話を介して全世界と連絡を取ることが可能であった。
7月1日、政府は多くのホテルの所有権を得た。国会議員600人はヴィシーでの会議や評議会に参加した。7月9-10日には、オペラハウスの大ホール客席で、国会議員は、第三共和制終了のための投票を行った。民主政体は廃止され、フィリップ・ペタンを首席とするヴィシー政権がこれに替わった。600人中わずか80人の議員が反対を表明した。この日から始まって4年以上の間、ヴィシーはフランスの首都となり「ヴィシー政権」と呼ばれた。
北アフリカのフランス植民地を舞台とした映画「カサブランカ」には、登場人物の警察署長が「ヴィシー水」を捨てるという象徴的なシーンがある。
名物
姉妹都市
関連項目
- ヨーロッパの大温泉保養都市群
- ヴィシソワーズ - 「ヴィシー風の」を意味するスープ料理だが、考案者がヴィシー出身というだけで、ヴィシーとは直接関係ない。
脚注
- ^ Dans l’Allier, selon toutes-les-villes.com
- ^ En Auvergne, selon toutes-les-villes.com
- ^ a b 岡田演之『ペタン元帥はかく考へる』三学書房、1941年10月20日、pp223-224。