起源
起源は一般的には江戸時代後期、光格天皇の皇子・皇女らが用いたものとされているが、「内々のしきたりで記録にも残されない。正直言って詳しいことは分からない。」と(宮内庁書陵部)は発表している。明治時代以降、宮廷内で広く用いられるようになった。皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である。皇族に仕える者たちが、皇族の名前や称号を書くことは恐れ多いと考え、お印を使うようになったともいわれる。もともとは女性の間で始まったという説もある。
実例
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祥子妃の(五衣)は、(紅梅の襲色目)。(唐衣)は白地に、紅梅色で徳川家の家紋:三つ葉葵が配されている。
親王、内親王、王、女王の場合は(命名の儀)において、内親王と女王をのぞく親王妃、(王妃)の場合は皇族男子との結婚時に定められる。圧倒的に植物にまつわるものが多いが、そうでない者もいる。決めるのは母あるいは祖母が多いとされるが父母・祖父母や結婚する夫妻などの合議で決めている例も多い。図案については、皇后雅子の場合は(東京芸術大学)名誉教授の吉田左源二が図案化を担当したと報じられ、外注されている例もある。
また、親兄弟と関連性を持たせたお印も多く、大正天皇の4皇子は全員「若○」の形式であり、三笠宮崇仁親王の子女は全員「(木へん)」が共通している(なお、名前も全員「(ウ冠)」が共通)。
単に徽章としてのみならず、宮家を創設した場合の紋や祝賀行事の際の(ボンボニエール)に、お印の意匠が用いられるなど、その人の象徴として用いられている。実際に身の回りのものに刻印されることは少なく、旅行時の荷物の識別のため、タグに「はまなす」など、お印の名前を文字で書き込むことがある。
また、1935年(昭和10年)4月に(北白川宮永久王)が(徳川祥子)と結婚した際には、ボンボニエールにそれぞれのお印の意匠を用いたのみならず、祥子のお印「(紅梅)」に因み、結婚の儀で着用した(五衣)や(唐衣)は、紅梅の配色((襲の色目))となっている。ただし、この当時9歳であった昭和天皇の第一皇女(成子内親王)も紅梅をお印としており、同時代に重複していた例となる。なお後年、成子内親王が(盛厚王)と結婚後皇籍離脱し、36歳で早世した際には、その墓所には成子のお印の紅梅と、夫盛厚のお印の松が植えられている。
歴代天皇・皇后
皇子女
明治天皇皇子女
- 明宮嘉仁親王:壽(文字)
- (常宮昌子内親王):鶴
- (周宮房子内親王) :亀
- (富美宮允子内親王):徳
- (泰宮聡子内親王):孝
大正天皇皇子
昭和天皇皇子女
上皇皇子女
今上天皇皇子女
皇族
上皇明仁の皇子を祖とする宮家
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菊花を初代当主の(文仁親王)のお印:(栂)で囲む
- (秋篠宮)家
- (秋篠宮文仁親王):(栂)
- (文仁親王妃紀子):(檜扇菖蒲)
- (眞子内親王):(木香茨)
- (佳子内親王):(ゆうな)
- (悠仁親王):(高野槇)
昭和天皇の皇子を祖とする宮家
- (常陸宮)家
- (常陸宮正仁親王):(黄心樹)
- (正仁親王妃華子):(石南花)
大正天皇の皇子を祖とする宮家
- (秩父宮)家
- (秩父宮雍仁親王):(若松)
- (雍仁親王妃勢津子):菊
- (高松宮)家
- (高松宮宣仁親王):若梅
- (宣仁親王妃喜久子):(亀)→(撫子)
- (三笠宮)家
- 三笠宮崇仁親王:(若杉)
- (崇仁親王妃百合子):(桐)
三笠宮崇仁親王の子孫
- (桂宮)家
- (桂宮宜仁親王):(桂)
- (高円宮)家
- (高円宮憲仁親王):(柊)
- (憲仁親王妃久子):扇
- (承子女王):(萩)
- (典子女王):(蘭)
- (絢子女王):(葛)
脚注
出典
- ^ 1933年12月 読売新聞「日嗣の皇子へ「栄」の御印章」ほか
- ^ 2006年9月12日 (中国新聞)
- ^ a b 椎谷 2002 p.133
- ^ a b 椎谷 2002 p.166-168
- ^ a b 田中 2017 p.7
- ^ “皇室の系図-皇室とっておき”. (朝日新聞デジタル). 朝日新聞社. 2016年1月31日閲覧。
- ^ 毎日新聞社 編『[ご結婚記念]皇太子殿下と雅子さま』(第2刷)毎日新聞社、1993年、147頁。
- ^ (北條誠)、(酒井美意子)、『皇女照宮』、1973年7月。(ASIN) B000J9GT2U。 p.270-272(写真及び墓碑より)
- ^ a b c d e f g h 『華ひらく皇室文化』 2018 p.6-7