志摩国 しまのくに は かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ 下国 東海道に属する 志摩国 志摩国 東海道別称志州 ししゅう 所属東海道相当領域三重県東部 志摩半島東端 諸元国力下国距離近国郡 郷数2郡14郷国内主要施設志摩国府三重県志摩市志摩国分寺三重県志摩市 志摩国分寺跡 志摩国分尼寺 未詳 一宮伊雑宮 三重県志摩市 伊射波神社 三重県鳥羽市 テンプレートを表示領域明治維新直前の領域は 現在の三重県鳥羽市の全域と志摩市の大部分 磯部町山原 磯部町栗木広 磯部町桧山を除く に相当する 沿革当初は桃色の地域も志摩国に含まれていた 律令制以前は成務朝に設置された島津国造の領域であったとされ 令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立した その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが 伊勢国の隷属下に置かれたという 8世紀初めまで 嶋国 志麻国とも書かれた 飛鳥 奈良時代には 代々内膳司を勤めていた高橋氏などが国司であったが 志摩に赴くことはなかったという 志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから稲米の収穫量が少なかったため 伊勢国や尾張国の田を志摩国の口分田とし 国衙や国分寺の費用を伊勢国 尾張国 三河国が負担した 海産物を贄として 宮中へ貢ぐ御食国の一つと推定される 当初の志摩国の領域は 現在の三重県の鳥羽市 志摩市だけではなく 度会郡南伊勢町 大紀町の錦地区 北牟婁郡紀北町 尾鷲市全域までが志摩国志摩郡に含まれていた 後に答志郡 佐芸郡と分割され 佐芸郡が英虞郡に代わった 平城京発掘で出土した木簡に伊雑郷 名錐郷 船越郷などの表記が見られ これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である 船越郷は 現在の度会郡南伊勢町船越と解釈するのが一般的であるが 名錐郷に隣接する船越とする説もある 天正10年 1582年 紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢国司の北畠信雄が荷坂峠を境として それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため 志摩国は現在の三重県の鳥羽市 志摩市だけの地域に限定された また古代には三河湾の篠島 日間賀島 佐久島も志摩国答志郡に属していたが室町時代に吉良氏の勢力下に入り 三河国幡豆郡に取り込まれたという説がある その後 篠島と日間賀島は尾張藩領となり尾張国知多郡に属した 近世以降の沿革 旧高旧領取調帳 の記載によると 明治初年時点では国内の全域が鳥羽藩領であった 56村 21 535石余 答志郡 37村 13 003石余 英虞郡 19村 8 532石余 明治4年 7月14日 1871年8月29日 廃藩置県により鳥羽県の管轄となる 11月22日 1872年1月2日 第1次府県統合により度会県の管轄となる 明治9年 1876年 4月18日 第2次府県統合により三重県の管轄となる 国内の施設国府 国府は 和名抄 および 拾芥抄 に 英虞郡とある 志摩市阿児町国府に比定されている 国分寺 国分尼寺 志摩国分寺 志摩市阿児町国府字御堂の後にあった 志摩国分尼寺 志摩市阿児町国府字大堂にあった 神社 延喜式内社 延喜式神名帳 には 以下に示す大社2座1社 小社1座1社の計3座2社が記載されている 志摩国の式内社一覧参照 大社1社は名神大社ではない 答志郡 粟島坐伊射波神社 二座 式内大社 大日本国一宮記 に 伊射波神社志摩国答志郡 とあるのが初見である 伊雑宮と伊射波神社が論社 後述 同島坐神乎多乃御子神社 佐美長神社 伊雑宮境外所管社 に比定総社 一宮総社 不詳 一宮 伊雑宮 いざわのみや 志摩市磯部町上之郷 伊勢神宮別宮 伊射波神社 いざわじんじゃ 鳥羽市 伊雑宮と伊射波神社は ともに式内大社の 粟島坐伊射波神社 論社であり 両社ともが志摩国一宮とされている 伊射波神社は 加布良古明神 とも呼ばれており 中世以前の史料では加布良古明神が伊射波神社と称したものは見つかっていない これについては 伊雑宮が神宮別宮であるため 近世以降に加布良古明神を伊射波神社と称して一宮としたものとする説もあるが 安永4年 1775年 の 大神宮儀式解 では 或人の説 として 延喜式では伊雑宮は大神宮式の中に収められており 安楽島の伊射波神社が神名帳に記されたのである よって志摩国一宮の伊射波神社は加布良古明神である と記している 一宮を真清田大明神とする史料もあるが 志摩国に該当する神社はなく 尾張国一の宮の真清田神社が誤って記述されたと思われる 二宮以下はなし 守護所 守護代所が 室町時代に答志郡泊浦 現在の鳥羽市鳥羽にあったと考えられている ただし 室町時代は守護は伊勢 志摩両国で一人だったともいう 安国寺利生塔 安国寺 三重県志摩市磯部町沓掛地域郡 志摩国は飛鳥時代には志摩郡のみであったが 奈良時代に入り佐芸郡 答志郡の二郡に分けられた 佐芸郡はすぐに英虞郡に改名された 1郡制 飛鳥時代 志摩郡2郡制 天平時代に志摩郡を2分割 英虞郡 佐芸郡 当初は 佐芸郡 さきぐん と呼ばれた 現在の英虞湾周辺の地域で 志摩市阿児町の安乗と国府を除く地域 大王町全域 志摩町全域 浜島町全域がこの地域にあたる 天正10年 1582年 までは 現在の度会郡南伊勢町 大紀町の一部 錦 北牟婁郡紀北町 尾鷲市を含んでいたが 荷坂峠を境に西が紀伊国牟婁郡 東が伊勢国度会郡に それぞれ編入された 答志郡 現在の鳥羽市 志摩市北部 阿児町の安乗と国府 成基地区を除いた磯部町 がこの地域に当たる 江戸時代の藩 志摩国の藩の一覧 藩名 居城 藩主鳥羽藩 鳥羽城 九鬼家 5万5千石 5万6千石 1600年 1632年 摂津三田藩3万6千石 丹後綾部藩2万石へ転封 内藤家 3万5千石 1632年 1680年 改易 天領 1680年 1681年 土井利益 7万石 1681年 1691年 肥前唐津藩7万石へ転封 松平乗邑 6万石 1691年 1710年 伊勢亀山藩6万石へ転封 板倉重治 5万石 1710年 1717年 伊勢亀山藩5万石へ転封 松平光慈 7万石 1717年 1725年 信濃松本藩6万石へ転封 稲垣家 3万石 1725年 1871年 人物守護 鎌倉幕府 1322年 北条貞顕室町幕府 伊勢国守護と兼任だったとされている 伊勢国を参照 戦国時代 戦国大名 北畠氏 伊勢国司 織豊政権の大名 九鬼嘉隆 鳥羽城3万5千石 1569年 1600年 関ヶ原の戦い後 息子の九鬼守隆が鳥羽藩主となる武家官位としての志摩守 江戸時代以前 蒲池鑑広 戦国時代の筑後国の武将 上妻郡に8千町 8万石 を領した 氏家行継 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将 豊臣政権の大名 近江国 伊勢国内1万5000石 江戸時代 肥後人吉藩相良家 相良頼福 第4代藩主 相良頼峯 第7代藩主 相良頼徳 第12代藩主 直政系越前松平家出雲母里藩分家 松平直員 第3代藩主 松平直方 第7代藩主 松平直興 第8代藩主 松平直温 第9代藩主 蝦夷松前藩松前家 松前公広 第2代藩主 松前矩広 第5代藩主 松前邦広 第6代藩主 松前道広 第8代藩主 松前昌広 第11代藩主 松前徳広 第13代藩主 美作勝山藩三浦家 三浦正次 勝山藩三浦家初代 下総矢作藩主 下野壬生藩初代藩主 三浦安次 勝山藩三浦家2代 壬生藩第2代藩主 三浦義理 勝山藩三浦家5代 三河刈谷藩第3代藩主 三河西尾藩初代藩主 三浦明次 勝山藩三浦家6代 西尾藩第2代藩主 美作勝山藩初代藩主 三浦矩次 勝山藩三浦家7代 勝山藩第2代藩主 三浦前次 勝山藩三浦家8代 勝山藩第3代藩主 三浦朗次 勝山藩三浦家13代 勝山藩第8代藩主 信濃岩村田藩内藤家 内藤忠重 志摩鳥羽藩初代藩主 内藤正興 信濃岩村田藩第4代藩主 内藤正誠 岩村田藩第7代主 その他 菅沼定仍 上野阿保藩主 伊勢長島藩初代藩主 寺沢広高 肥前唐津藩初代藩主 皆川隆庸 常陸府中藩第2代藩主 森長孝 播磨赤穂藩第2代藩主 山崎治祇 備中成羽藩第2代藩主 山崎俊家 讃岐丸亀藩第2代藩主 伊東祐賢 旗本寄合席 江戸幕府小姓 中奥小姓 志摩国の合戦1181年 熊野海賊菜切攻め 反平家方 熊野の僧 x 平家方 伊豆江四郎 1600年 鳥羽城の戦い 東軍 九鬼守隆 x 西軍 九鬼嘉隆 脚注 竹内秀雄 続群書類従完成会 1989 泰平年表 八木書店 1989 08発行 p 74 ISBN 9784797104912 舘野和己 古事記 と木簡に見える国名表記の対比 古代学 4号 2012年 17 19頁 参考文献 磯部町史 阿児町史 大王町史 志摩町史 南勢町史 角川日本地名大辞典 24 三重県 旧高旧領取調帳データベース関連項目ウィキメディア コモンズには 志摩国に関連するカテゴリがあります 令制国一覧 志摩弁 鳥羽市 志摩市, ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム、モバイル、電話、Android、iOS、Apple、携帯電話、Samsung、iPhone、Xiomi、Xiaomi、Redmi、Honor、Oppo、Nokia、Sonya、MI、PC、ウェブ、コンピューター