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公爵 こうしゃく 英 duke 羅 dux 独 Herzog は 爵位 五爵 の第1位 侯爵の上位に相当する ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる 概要日本ではこの 公 によって 英語の場合であれば princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった princeは基本的には小国の君主や諸侯 王族の称号であり dukeは諸侯の称号である 日本語では 例えばモナコやリヒテンシュタインの君主 マルタ騎士団長などのprinceを 公 ではなく 大公 と訳すことで 公爵 duke との区別をつけようとする場合がある ただし こうして便宜的に使用された場合の 大公 は ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる 逆に 日本の華族制度における 公爵 の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは おおやけ こうしゃく と呼ばれた 日本の公爵華族の公爵 1869年 明治2年 6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を 皇室の藩屏 として統合した華族身分が誕生した 当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが 当初より等級付けを求める意見があった 様々な華族等級案が提起されたが 最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年 明治11年 に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された 1884年 明治17年 5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ 従来の華族 旧華族 に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり 同年7月7日に発せられた華族令により 五爵制に基づく華族制度の運用が開始された 公爵は華族の中でも最上位の階級 従一位相当 であり 全爵位の中でも最も少数だった 叙爵内規では公爵の叙爵基準について 親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者 と定められている 公爵家の数は1884年時点では11家 華族家の総数509家 1907年には15家 同903家 1926年時には19家 952家 1947年時には17家 889家 である 華族そのものが 皇室の藩屏 だが 公爵家はその中でも特に天皇に近しい選民集団だった 皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので 皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった 天皇への拝謁には上から単独拝謁 広間で集団でお迎えする列立拝謁 廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが 公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた また新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた 華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが 1915年 大正4年 末時点における使用人数の平均は侯爵家が43 7人から47 8名であるのに対し 公爵家のそれは10名ほど少ない 侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる 特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから 明治27年 1894年 には明治天皇の結婚25周年記念で 旧堂上華族恵恤賜金 が作られ その利子が旧公家華族に支給されることになった 配分は公侯爵が3 伯爵が2 子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円 伯爵1200円 子爵600円だった 1947年 昭和22年 5月3日に施行された日本国憲法第14条 法の下の平等 において 華族その他の貴族の制度は これを認めない と定められたことにより 公爵位を含めた華族制度は廃止された 貴族院における公爵 1889年 明治22年 の貴族院令 勅令第11号 により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ ほかに皇族議員と勅任議員がある 公侯爵は満25歳 大正14年以降は満30歳 に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記 記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった また公侯爵議員が無給だったのに対し 伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり 本会議出席率さえ十分ではなかった 特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた 必ず入隊することになっていた皇族や王公族ほどではないものの 華族もノブレス オブリージュの一環でなるべく入隊するよう奨励されていた しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく 近衛篤麿公爵 近衛文麿公爵 徳川家達公爵 二条基弘公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる また歴代貴族院議長は伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり 貴族院副議長も公侯爵が多かった 議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく 座りの良さ のあらわれであり これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった 貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが 公侯爵は長年各派に分散していた しかし1927年 昭和2年 には近衛文麿公爵の主導で 火曜会 という公侯爵議員による院内会派が形成された これは互選がないゆえに 一番自由な立場 である世襲議員の公侯爵議員は 貴族院の自制 が必要だと考える者が多く そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み 貴族院を 事実上の権限縮小 貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく 存在にすることができるという考えに立脚したものだった 近衛文麿公爵のほか 徳川家達公爵 木戸幸一侯爵 細川護立侯爵 広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた 叙爵内規 叙爵内規では公爵の基準について 親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉勲アル者 と定められていた 具体的には以下のようになっている 親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 親王諸王 とは後の1889年 明治22年 制定の皇室典範で 皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王 五世以下は男を王 と定められるが 華族令制定当時 明治17年当時 においては明確な定義はなかった 当初は伏見宮家 桂宮家 有栖川宮家 閑院宮家の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが 実際には該当者は維新の功により皇族となったので これにより親王家は4家から15家に増えていた 華族令制定当時において 親王諸王より臣位に列せらるる者 に該当する者は存在しなかった 皇族急増により1907年 明治40年 2月11日の皇室典範増補第1条で 王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし と定められたことで臣籍降下で華族になる例が増えてくるが 公爵になった者はおらず 侯爵か伯爵だった 旧摂家 公家社会でも最高位に属するとされ 摂政 関白に昇る資格を持っていた家柄である 近衛家 鷹司家 九条家 一条家 二条家の計5家 徳川宗家 旧将軍家 旧静岡藩主の徳川宗家のことである 国家二偉勲アル者 勲功華族の規定 侯爵以下の爵位の勲功華族の規定は 国家ニ勲功アル者 になっているのに対し 公爵のみ 偉勲 が要求される これは3種に大別できる 偉勲 がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち 功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ 旧清華家の三条家 家格では侯爵だが三条実美の功績により 旧羽林家の岩倉家 家格では子爵だが岩倉具視の功績により 旧薩摩鹿児島藩主の島津家 家格では侯爵だが島津忠義の功績により 旧長門萩藩主の毛利家 家格では侯爵だが毛利敬親 元徳の功績により の4家がこれにあたる また 後年侯爵から陞爵した旧清華家西園寺家 西園寺公望の功績により 旧清華家徳大寺家 徳大寺実則の功績により 旧水戸藩主水戸徳川家 大日本史 編纂の功績により の3家もこれに含めて考えられる 本家がすでに公爵となっているにもかかわらず その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され さらに公爵位を授けられたグループがある 具体的には 藩主ではなかったがその後見人として幕末の薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫 玉里島津家 大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫 徳川慶喜家 の2家である 叙爵内規上明治以降の華族の分家は男爵と定められていたのでこの二家は岩倉家の三階級特進を超える四階級特進だったといえる 家系によらず 初代の勲功によって公爵となったグループ 伊藤博文の伊藤家 大山巌の大山家 山縣有朋の山縣家 松方正義の松方家 桂太郎の桂家の五家である いずれも内閣総理大臣など国家中枢の役職を歴任して元勲と称された人々であり 当初子爵ないし伯爵の爵位を受け その後 日清戦争や日露戦争などで勲功を重ねて侯爵を経て陞爵したものである 日本の公爵家一覧 家紋 家名 通称等 受爵者 襲爵者 旧家格 出自 叙爵年 所在など近衛家 近衛篤麿 近衛文麿 旧摂関家 藤原北家嫡流 近衛流嫡流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 1945年 昭和20年 12月16日 返上 東京市淀橋区下落合鷹司家 鷹司熙通 鷹司信輔 旧摂関家 藤原北家嫡流 近衛流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市目黒区上目黒九条家 九条道孝 九条道実 九条道秀 旧摂関家 藤原北家嫡流 九条流嫡流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市赤坂区一条家 一条実輝 一条実孝 旧摂関家 藤原北家嫡流 九条流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市牛込区鷹匠町二条家 二条基弘 二条厚基 二条弼基 旧摂関家 藤原北家嫡流 九条流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市渋谷区代々木富ケ谷町三条家 転法輪家 三条実美 三条公美 三条実憲 三条公輝 三条実春 旧清華家 藤原北家閑院流嫡流 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市品川区上大崎徳川家 徳川宗家 徳川家達 徳川家正 旧将軍家 旧静岡藩主 清和源氏と称する 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市渋谷区千駄ヶ谷島津家 島津宗家 島津忠義 島津忠重 旧鹿児島藩主 清和源氏と称する 本来は惟宗氏 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市品川区五反田島津家 玉里家 島津久光 島津忠済 島津忠承 島津宗家分家 清和源氏と称する 本来は惟宗氏 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市渋谷区豊分町毛利家 毛利元徳 毛利元昭 毛利元道 旧萩藩主 大江氏 1884年 明治17年 7月7日 叙爵 東京市芝区高輪南町 山口県防府市多々良岩倉家 岩倉具定 岩倉具張 岩倉具栄 旧羽林家 村上源氏 1884年 明治17年 7月8日 叙爵 東京市渋谷区鉢山町徳川家 徳川別家 徳川慶喜 徳川慶久 徳川慶光 徳川宗家別家 清和源氏と称する 1902年 明治35年 6月3日 叙爵 東京市小石川区小日向第六天町伊藤家 伊藤博文 伊藤博邦 伊藤博精 旧萩藩士 越智氏と称する 1907年 明治40年 9月21日 侯爵より 東京市麻布区新龍土町大山家 大山巌 大山柏 旧鹿児島藩士 近江源氏 1907年 明治40年 9月21日 侯爵より陞爵 東京市渋谷区穏田山縣家 山縣有朋 山縣伊三郎 山縣有道 山縣有信 旧萩藩士 清和源氏と称する 1907年 明治40年 9月21日 侯爵より陞爵 東京市麴町区富士見町徳大寺家 徳大寺実則 徳大寺公弘 徳大寺実厚 旧清華家 藤原北家閑院流 1911年 明治44年 4月21日 侯爵より陞爵 東京市渋谷区長谷戸町桂家 桂太郎 桂広太郎 旧萩藩士 大江氏 1911年 明治44年 4月21日 侯爵より陞爵 東京市芝区三田西園寺家 西園寺公望 西園寺八郎 旧清華家 藤原北家閑院流 1920年 大正9年 9月7日 侯爵より陞爵 1946年 昭和21年 7月1日 返上 静岡県庵原郡興津町 東京市神田区駿河台松方家 松方正義 松方巖 旧鹿児島藩士 桓武平氏 1922年 大正11年 9月18日 侯爵より陞爵 1927年 昭和2年 12月19日 返上 徳川家 水戸家 徳川圀順 旧水戸藩主 清和源氏と称する 1929年 昭和4年 11月18日 侯爵より陞爵 東京市渋谷区猿楽町中国の公爵 中国語版 も参照 西周時代に設置された爵について 礼記 には 王者之制緑爵 公侯伯子男凡五等 とあり 公 は五つある爵の最上位に位置づけている 一方で 孟子 万章下には 天子之卿 受地視侯 大夫受地視伯 元士受地視子男 とあり 公の表記はない 礼記 孟子 とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している また 春秋公羊伝 には 天子は三公を公と称し 王者之後は公と称し 其の余大国は侯と称し 小国は伯 子 男を称す という三等爵制が記述されている 金文史料が検討されるようになって 郭沫若 楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず 後世によって創出されたものと見るようになった が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが 子男については実態ははっきりしないと述べている 漢代においては二十等爵制が敷かれ 公 の爵位は存在しなかったが 特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた 魏の咸熙元年 264年 爵制が改革され 公の爵位が復活した 公侯伯子男 の爵位は列侯やの上位に置かれ 諸侯王の下の地位となる 食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び 県公なら千八百戸 七十五里四方の土地が与えられることとなっている その後西晋でも爵位制度は存続し 恵帝期以降には公 侯の濫授が行われた このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている 南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている 隋においては国王 郡王 国公 県公 侯 伯 子 男の爵が置かれ 唐においては王 開国国公 開国郡公 開国県公 開国侯 開国伯 開国子 開国男の爵位が置かれた 主要な中国の公爵 咸熙元年の五等爵制発足時には 公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり 晋王朝成立後は諸侯王となった その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており 発足時点では公は3名のみであった 三公であった王祥 鄭沖 そのほかの重臣賈充 石苞 衛瓘 裴秀 何曾たちが侯となったが 晋王朝成立後はいずれも公となっている またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている 呉から降伏した孫秀 歩璿も公に叙せられている 太康の役の論功行賞としては 王渾が公となっている 以降西晋期には宰相であった張華 前涼の基盤を作った張軌などが公となっている 東晋では建国に功のあった王導と 後に反乱を起こした王敦 前秦からの防衛に成功した謝安 武将の陶侃 そして東晋を滅ぼし宋を建国した劉裕などがいる 唐においては太宗即位後に長孫無忌 高士廉 義興郡公 などの功臣が公となっている また宋代以降 孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け 清末まで続いた イギリスの公爵イギリスの公爵の紋章上の冠 イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世 在位 1066年 1087年 である 彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが エドワード懺悔王 在位 1042年 1066年 の崩御後 イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し イングランド王位に就いた ノルマン コンクエスト 重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため 大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった イングランドの公爵 Duke は 伯爵 Earl と男爵 Baron に続いて創設された爵位だった 1337年にエドワード3世 在位 1327年 1377年 が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵 Duke of Cornwall 位を与えたのが公爵の最初である 続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世 在位 1216年 1272年 の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵 Duke of Lancaster 位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した 臣民に公爵位が与えられた最初の事例は 1483年にリチャード3世 在位 1483年 1485年 よりノーフォーク公爵 Duke of Norfolk を与えられたジョン ハワードである もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く その後 臣民の公爵位はステュアート朝期 特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代 に急増した ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ 最も多い時期には40家の公爵家が存在した しかし家系の断絶でその数は減少していった 2021年時点臣民の公爵家は24家にまで減っている またジャコバイトの王位請求者たちが創設した 英語版 の爵位にも17の公爵位がある イングランド王国 スコットランド王国 アイルランド王国それぞれに貴族制度が存在し それぞれをイングランド貴族 スコットランド貴族 アイルランド貴族という イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり イングランド貴族 スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった イングランド貴族 スコットランド貴族 グレートブリテン貴族 アイルランド貴族 連合王国貴族いずれにおいても公爵位は第1位として存在する 公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵 スコットランド貴族公爵 グレートブリテン貴族公爵 アイルランド貴族公爵 連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる 宮中席次における臣民公爵の序列は 国王 女王 王妃 王配 皇太子 王子 カンタベリー大主教 大法官 ヨーク大主教 首相 枢密院議長 庶民院議長 国璽尚書 英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である 侯爵から男爵までの貴族が 卿 My Lord と呼び掛けられるのに対し 公爵のみは 閣下 Your Grace と呼び掛けられる また公爵 侯爵 伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する 父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける 公爵と侯爵の息子は全員がLord 卿 ロード を 娘はLady レディ が敬称として付けられる 英国貴族の爵位は終身であり 原則として生前に爵位を譲ることはできない 爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ 爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない かつては爵位継承を拒否することもできなかったが 1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内 未成年の貴族は成人後1年以内 であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった 現在の公爵位はランカスター公爵 英国王が保持 とコーンウォール公爵 皇太子が保持 以外は領地が付随するわけでもなく 貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した 1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる 公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく 貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない 現存する公爵位 王族公爵位 紋章 爵位名 爵位の創設年と分類 現公爵の肖像 現公爵の名前 備考コーンウォール公爵 1337年創設イングランド貴族 プリンス オブ ウェールズ ウィリアム 1982 チャールズ3世国王の長男 皇太子ロスシー公爵 1398年創設スコットランド貴族 ケンブリッジ公爵 2011年創設連合王国貴族 エディンバラ公爵 2023年創設連合王国貴族 初代エディンバラ公爵 エドワード 1964 エリザベス2世女王の三男グロスター公爵 1928年創設連合王国貴族 第2代グロスター公爵 リチャード 1944 エリザベス2世女王の従弟ケント公爵 1934年創設連合王国貴族 第2代ケント公爵 エドワード 1935 エリザベス2世女王の従弟ヨーク公爵 1986年創設連合王国貴族 初代ヨーク公爵 アンドルー 1960 エリザベス2世女王の次男サセックス公爵 2018年創設連合王国貴族 初代サセックス公爵 ヘンリー 1984 チャールズ3世国王の次男臣民公爵位 紋章 爵位名 爵位の創設年と分類 家名 現公爵の肖像 現公爵の名前ノーフォーク公爵 1483年創設イングランド貴族 フィッツアラン ハワード家 第18代ノーフォーク公爵 エドワード フィッツアラン ハワード 1956 サマセット公爵 1547年創設イングランド貴族 シーモア家 第19代サマセット公爵 英語版 1952 リッチモンド公爵 1675年創設イングランド貴族 ゴードン レノックス家 第11代リッチモンド公爵 第11代レノックス公爵 第6代ゴードン公爵 英語版 1955 レノックス公爵 1675年創設スコットランド貴族 ゴードン レノックス家ゴードン公爵 1876年創設連合王国貴族 ゴードン レノックス家グラフトン公爵 1675年創設イングランド貴族 フィッツロイ家 第12代グラフトン公爵 英語版 1978 ボーフォート公爵 1682年創設イングランド貴族 サマセット家 第12代ボーフォート公爵 英語版 1952 セント オールバンズ公爵 1684年創設イングランド貴族 ボークラーク家 第14代セント オールバンズ公爵 英語版 1939 ベッドフォード公爵 1694年創設イングランド貴族 ラッセル家 第15代ベッドフォード公爵 英語版 1962 デヴォンシャー公爵 1694年創設イングランド貴族 キャヴェンディッシュ家 第12代デヴォンシャー公爵 英語版 1944 マールバラ公爵 1702年創設イングランド貴族 スペンサー チャーチル家 第12代マールバラ公爵 ジェイミー スペンサー チャーチル 1955 ラトランド公爵 1703年創設イングランド貴族 マナーズ家 第11代ラトランド公爵 英語版 1959 ハミルトン公爵 1643年創設スコットランド貴族 ダグラス ハミルトン家 第16代ハミルトン公爵 第13代ブランドン公爵 英語版 1978 ブランドン公爵 1711年創設グレートブリテン貴族 ダグラス ハミルトン家バクルー公爵 1663年創設スコットランド貴族 英語版 第10代バクルー公爵 第12代クイーンズベリー公爵 英語版 1954 クイーンズベリー公爵 1684年創設スコットランド貴族 ダグラス スコット家アーガイル公爵 1701年創設スコットランド貴族 キャンベル家 第13代アーガイル公爵 第6代アーガイル公爵 英語版 1968 アーガイル公爵 1892年創設連合王国貴族 キャンベル家アソル公爵 1703年創設スコットランド貴族 英語版 第12代アソル公爵 英語版 1960 モントローズ公爵 1707年創設スコットランド貴族 英語版 第8代モントローズ公爵 英語版 1935 ロクスバラ公爵 1707年創設スコットランド貴族 イニス カー家 第11代ロクスバラ公爵 チャールズ イニス カー 1981 マンチェスター公爵 1719年創設グレートブリテン貴族 モンタギュー家 第13代マンチェスター公爵 英語版 1962 ノーサンバーランド公爵 1766年創設グレートブリテン貴族 パーシー家 第12代ノーサンバーランド公爵 英語版 1956 リンスター公爵 1766年創設アイルランド貴族 英語版 第9代リンスター公爵 英語版 1948 アバコーン公爵 1868年創設アイルランド貴族 ハミルトン家 第5代アバコーン公爵 ジェイムズ ハミルトン 1934 ウェリントン公爵 1814年創設連合王国貴族 ウェルズリー家 第9代ウェリントン公爵 チャールズ ウェルズリー 1945 サザーランド公爵 1833年創設連合王国貴族 エジャートン家 第7代サザーランド公爵 英語版 1940 ウェストミンスター公爵 1874年創設連合王国貴族 グローヴナー家 第7代ウェストミンスター公爵 ヒュー グローヴナー 1991 ファイフ公爵 1900年創設連合王国貴族 カーネギー家 第4代ファイフ公爵 デイヴィッド カーネギー 1961 かつて存在した公爵位 アイルランド公爵 第9代オックスフォード伯ロバート ド ヴィアーが一代限りで叙される アルベマール公爵 マンク家が2代保有したが 1688年に絶家 アンカスター ケスティーブン公爵 リンジー伯爵バーティ家が5代にわたって保有 1809年に廃絶 リンジー伯位は現存 ウィンザー公爵 退位後のエドワード8世の爵位 ウォートン公爵 第2代ウォートン侯フィリップ ウォートンが叙されるが 一代で絶家 従属爵位だったウォートン男爵位は現存 ウォリック公爵 第14代ウォリック伯爵ヘンリー ビーチャムが叙位された 一代で廃絶 エクセター公爵 王族のホランド家が保有したが 1475年に絶家 オーモンド公爵 バトラー家が3代保有したが 1758年に絶家 従属爵位オーモンド伯爵は存続し 後にオーモンド侯爵を与えられるも1997年に絶家 オールバニ公爵 王族の爵位 カンバーランド公爵 王族の爵位 英語版 ピアポイント家が2代保有したが 1773年に絶家 スコットランド王族 英語版 が叙された クラレンス公爵 王族の爵位 クラレンス セント アンドルーズ公爵 ウィリアム4世が即位前に叙位された爵位 クリーヴランド公爵 フィッツロイ家が3代 ヴェイン家 後ポーレット が4代保有したが 1891年に絶家 グリニッジ公爵 2代アーガイル公ジョン キャンベルが叙されたが 一代で絶家 英語版 通常は王室関係者が叙される爵位 コノート公爵 ヴィクトリア女王の第3王子アーサーが保有した サウサンプトン公爵 クリーヴランド公爵フィッツロイ家が2代保有したが 1774年に廃絶 サフォーク公爵 チャールズ ブランドン ついで3代ドーセット侯ヘンリー グレイが叙された サリー公爵 第3代ケント伯爵トマス ホランドが叙位された 一代で廃絶 シャンドス公爵 ブリッジス家が3代保有したが 1789年に廃絶 シュルーズベリー公爵 12代シュルーズベリー伯チャールズ タルボットが叙されたが 一代で消滅 シュルーズベリー伯は現存 ションバーグ公爵 ションバーグ家が3代保有したが 1719年に絶家 3代ダグラス侯アーチボルド ダグラスが叙されたが 一代で絶家 ダグラス侯位はハミルトン公爵家が継承 ドーヴァー公爵 クイーンズベリー公ダグラス家が2代保有したが 1778年に廃絶 ドーセット公爵 サックヴィル家が5代保有したが 1843年に絶家 ニューカッスル アポン タイン公爵 キャヴェンディッシュ家が2代 ジョン ホールズが1代 トマス ペラム ホールズが1代保有した ニューカッスル アンダー ライン公爵 トマス ペラム ホールズとペラム クリントン家が10代保有したが 1988年に絶家 従属爵位だったリンカーン伯は現存 バッキンガム公爵 スタッフォード家が3代 ヴィリアーズ家が2代保有したが 1687年に絶家 英語版 シェフィールド家が2代保有したが 1735年に絶家 バッキンガム シャンドス公爵 グレンヴィル家が3代保有したが 1889年に絶家 従属爵位だったコバム子爵は現存 ブリッジウォーター公爵 ブリッジウォーター伯爵エジャートン家が2代有したが 1803年に絶家 ブリッジウォーター伯位も1829年に絶家 ヘレフォード公爵 ヘンリー4世が即位前に叙されていた爵位 ポートランド公爵 ベンティンク家が9代保有したが 1990年に絶家 従属爵位だったポートランド伯爵は現存 ボルトン公爵 ウィンチェスター侯ポーレット家が6代保有したが 1794年に絶家 ウィンチェスター侯は現存 マンスター女公爵 エーレンガルト メルジーネ フォン デア シューレンブルクが1代限りで保有 モンマス公爵 チャールズ2世の庶子ジェイムズ スコットが1663年に叙されたが 1685年に剥奪 従属称号のドンカスター伯爵は1743年に復活し現存 モンタギュー公爵 モンタギュー家が保有したが 1766年に絶家 リーズ公爵 オズボーン家が12代保有したが 1964年に絶家 ロス公爵 スコットランド王族の爵位 ロシズ公爵 7代ロシズ伯 英語版 が叙されたが 一代で絶家 ロシズ伯は現存 英語版 2代ローダーデール伯ジョン メイトランドが叙されたが 一代で絶家 ローダーデール伯は現存 フランスの公爵アンシャン レジームの公爵の紋章上の冠 フランスの称号で 公爵 と訳されているのはデュック duc である ラテン語のドゥクス dux に由来する ドゥクスはフランスやドイツ イタリアの前身であるフランク王国がローマ帝国から継承した制度であり 都市管区を統治するコメス comes 伯 たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス 副伯 あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる 西フランク フランス 地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる 9世紀後半のポスト カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは 最初辺境伯 marchio を名乗っていたが 10世紀前半に公 dux を名乗るようになった 11世紀 とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層 公 伯 司教 の王政からの排除と封臣化が進み 12世紀末までには諸侯領 公領 は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた そのため中世の諸侯の独立性は強く 諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた 独立国家 であり フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった 11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公 西部のブルターニュ公 東部のブルゴーニュ公 南部のアキテーヌ公があった ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり 12世紀には アンジュー帝国 と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している オルレアン公 アンジュー公 ベリー公 アングレーム公 アランソン公 フランス語版 などは伝統的に王族の爵位となった 15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり 諸侯の独立性は弱まっていった 16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と ラングドック プロヴァンス イル ド フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり 著名な公爵だった アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり 国王発行の証書が必要となった ブルボン朝のアンリ4世以降 中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった 絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって 王室の藩屏 化が進んだ 絶対王政のもとで duc デュク 公爵 marquis マルキ 侯爵 comte コント 伯爵 vicomte ビコント 子爵 baron バロン 男爵 chevalier シュヴァリエ シェヴァリア 騎士 ecuyer エキュイエ 平貴族 等 旧来の封建領主の称号が段階づけられ 同時に宮廷席次も示された アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公 フランス語版 フランス語版 フランス語版 フランス語版 などがあった ルイ13世の宰相アルマン ジャン デュ プレシーは フランス語版 に叙位され リシュリューの名で知られる またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は 1830年の7月革命後にルイ フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた オルレアン朝 フランス語版 の公爵の紋章上の冠 フランス革命により貴族制度は廃止されたが ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公 Prince 公爵 Duc 伯爵 Comte 男爵 Baron シェヴァリア Chevalier の五爵位から成る フランス語版 が創設され 警察大臣ジョゼフ フーシェ フランス語版 やミシェル ネイ元帥 エルヒンゲン公爵 オーギュスト マルモン元帥 ラグーサ公爵 などが公爵に叙された 帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず 爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには 貴族財産 爵位とともに長男に譲り渡される財産 の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった 復古王政下ではアンシャン レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した 爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった ただし貴族院が設置され その議員の地位は世襲だった 1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが 貴族制度は復活されなかった ナポレオン3世が創設した公爵位には フランス語版 1856年 フランス語版 フランス語版 1859年パトリス ド マクマオン フランス語版 1862年 フランス語版 フランス語版 1862年シャルル ド モルニー ペルシニー公爵 1863年ヴィクトール ド ペルシニー フランス語版 1864年 フランス語版 がある 第二帝政崩壊後 貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが 1875年にフランス大統領パトリス ド マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず 称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した 1955年に裁判所は フランス語版 の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言 フランス人権宣言 が出生に付随する法的区別を禁じていることから 貴族はもはや法的効力を持たない と判示している 現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが 様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し その保護は行っている 結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性がある ドイツの公爵ドイツの称号で 公爵 と訳されるのはヘルツォーク Herzog である これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族部族大公 Stammesherzog のことだった この時期のヘルツォークは 大公 と訳されるのが一般的である 次のものがある ザクセン公 大公 フランケン公 大公 バイエルン公 大公 シュヴァーベン公 大公 ロタリンギア公 大公 13世紀に現れた選帝侯7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった 三十年戦争後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった ナポレオン戦争後 陪臣化などで諸侯の数が減らされ ナポレオン失脚後のウィーン体制下でもその状態が維持され ドイツ連邦には公爵が治める公国が以下の10個あった ブラウンシュヴァイク公 ホルシュタイン公 ナッサウ公 ザクセン アルテンブルク公 ザクセン ヒルトブルクハウゼン公 ザクセン コーブルク ゴータ公 ザクセン マイニンゲン公 ドイツ語版 ドイツ語版 アンハルト ベルンブルク公 ナッサウ公国とホルシュタイン公国は普墺戦争後プロイセンに併合されて消滅し ザクセン ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し アンハルト諸国はアンハルト公国として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公 ザクセン アルテンブルク公 ザクセン コーブルク ゴータ公 ザクセン マイニンゲン公 アンハルト公の5個だった これ以外に統治領域がなくなっていた公爵としてロイヒテンベルク公 シュレースヴィヒ ホルシュタイン ゾンダーブルク グリュックスブルク公 ラチブシュ公 ウラッハ公などがある ドイツ革命後 ヴァイマル共和政になると貴族は法的根拠を失ったが 爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた スペインの公爵スペインの公爵の紋章上の冠 王室の称号プリンシペ Principe を除けば スペイン貴族の階級には上からduque 公爵 marques 侯爵 conde 伯爵 vizconde 子爵 baron 男爵 senor 領主 の6階級があり 公爵は最上位である すべての公爵位にはグランデの格式が伴い グランデ委員会に属する グランデの格式を伴う爵位保有者は 閣下 Excelentisimo Senor 男性 Excelentisima Senora 女性 の敬称で呼ばれる スペインの公爵位は現在155個存在し 有名な物には16世紀の宗教戦争時代に当主が軍人として活躍したアルバ公爵 アルマダの海戦の際に当主が無敵艦隊の司令官を務めたメディナ シドニア公爵 新大陸発見者とされるクリストファー コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵と スペイン語版 アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ デ トゥルテンゴ公爵 スペイン語版 フェリペ3世の スペイン語版 を初代とする スペイン語版 フェリペ4世の寵臣を初代とする スペイン語版 オリバーレス伯爵の爵位を埋没させたがらず オリバーレス伯公爵 を名乗っていた ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ ロドリゴ公爵 スペイン内戦を起こした スペイン語版 の子孫が保有する スペイン語版 フランシスコ フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある また スペイン語版 は 19世紀末の スペイン語版 が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで 浪費を指して オスーナ家でもあるまいし という言い回しができたことで有名になった 正式な称号とは認められていないが カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった 王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが 大公 や 王子 と訳されることもある これには皇太子に与えられるアストゥリアス公などがある 公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる 貴族称号の放棄も可能だが 他の継承資格者の権利を害することはできず また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない 貴族称号保持者が死去した場合 その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後 他の承継人に継承の道が開かれる 爵位の継承には所定の料金がかかる スペインに貴族院はなく 爵位をもっていても法的な特権は何も得られない かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが これも1984年に廃止されている だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する 歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国 アラゴン連合王国 ナバラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり 17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵 侯爵 伯爵に限られ この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った 1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した 1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが 1948年に総統フランシスコ フランコが貴族制度を復活させ 国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった 王政復古後は再び国王が授爵を行っている 現存する公爵位 メディナ シドニア公爵 1445年 ゴンサレス デ グレゴリオ家 スペイン語版 1464年 スペイン語版 スペイン語版 1469年 メディナ家 アルバ公爵 1472年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1472年 ソト家 スペイン語版 1473年 スペイン語版 1474年 ブストス家 スペイン語版 1475年 アルテアガ家 スペイン語版 1476年 スペイン語版 スペイン語版 1476年 ウルサイス家 スペイン語版 1479年 ドイツ語版 スペイン語版 1482年 ゲレーロ ブルゴス家 スペイン語版 1482年 トラヴィセド家 スペイン語版 1483年 スペイン語版 スペイン語版 1485年 ロカ デ トゴレス家 スペイン語版 1485年 スペイン語版 スペイン語版 1487年 スペイン語版 スペイン語版 1492年 ソト家 スペイン語版 1493年 スペイン語版 スペイン語版 1493年 スペイン語版 スペイン語版 1495年 アラゴン家 スペイン語版 1497年 カサノバ カルデナス家 スペイン語版 1502年 ルイス デ ブセスタ家 スペイン語版 1502年 デ ラ シエルバ家 スペイン語版 1507年 ブストス家 スペイン語版 1507年 バロン家 スペイン語版 1527年 アラゴン家 スペイン語版 1529年 カサノバ カルデナス家 ベラグア公爵 1537年 スペイン語版 スペイン語版 1538年 ラトーレ家 スペイン語版 1555年 アルテアガ家 スペイン語版 1557年 スペイン語版 スペイン語版 1558年 ドイツ語版 スペイン語版 1562年 スペイン語版 スペイン語版 1563年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1566年 ルイス デ アラナ家 スペイン語版 1567年 メディナ家 スペイン語版 1568年 ブストス家 スペイン語版 1568年 ゴンサレス デ グレゴリオ家 スペイン語版 1572年 フィナット家 スペイン語版 1599年 ラリオス家 スペイン語版 1608年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1610年 ラトーレ家 スペイン語版 1613年 ドイツ語版 スペイン語版 1614年 ウエルタ家 スペイン語版 1619年 ドイツ語版 スペイン語版 1621年 メディニラ家 スペイン語版 1625年 ルイス デ ブセスタ家 オリバーレス公爵 1625年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1625年 カスティジェホ家 スペイン語版 1625年 アラーナ家 モクテスマ デ トゥルテンゴ公爵 スペイン語版 1627年 マルシージャ家 スペイン語版 1633年 カスティジェホ家 スペイン語版 1641年 サインス家 スペイン語版 1642年スレタ家 スペイン語版 1642年 セオアネ家 スペイン語版 1646年 ウルサイス家 スペイン語版 1656年 バルボ ベルトーネ家 スペイン語版 1660年 スペイン語版 スペイン語版 1664年 スペイン語版 スペイン語版 1667年 ズレータ家 スペイン語版 1681年 スペイン語版 1698年 レンカストレ家 スペイン語版 1703年 スペイン語版 スペイン語版 1705年 ファルコ家 スペイン語版 1707年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1708年 バロン家 スペイン語版 1715年 ファルコ家 スペイン語版 1717年 スペイン語版 スペイン語版 1717年 ランザ家 スペイン語版 1725年 スペイン語版 スペイン語版 1728年 スペイン語版 スペイン語版 1729年 マルトス家 スペイン語版 1735年 スペイン語版 スペイン語版 1738年 メディナ家 スペイン語版 1777年 マルケス家 スペイン語版 1780年 オヨス家 スペイン語版 1780年 スペイン語版 スペイン語版 1780年 フェルナンデス ビジャベルデ家 スペイン語版 1792年 ルスポリ家 スペイン語版 1793年 フィツ ハメス ステュアルト家 スペイン語版 1794年 スペイン語版 スペイン語版 1803年 スペイン語版 スペイン語版 1804年 ルスポリ家 スペイン語版 1805年 メシーア家 シウダ ロドリゴ公爵 1812年 ウェルズリー家 スペイン語版 1815年 メルガレホ家 スペイン語版 1816年 レヴィ ミルポワ家 スペイン語版 1817年 ファルコ家 スペイン語 1825年 サンチェス ナバーロ家 スペイン語版 1823年 ボルボン家 スペイン語版 1828年 スペイン語版 スペイン語版 1829年 エガーニャ家 スペイン語版 1830年 カステラーヌ家 スペイン語版 1830年 マルトレル家 スペイン語版 1830年 マルケス家 スペイン語版 1833年 カロンデレ家 スペイン語版 1834年 スペイン語版 スペイン語版 1836年 スペイン語版 スペイン語版 1836年 オラー家 スペイン語版 1837年 モンテスシーノ エスパルテーロ家 スペイン語版 1844年 ムニョス家 スペイン語版 1847年 エガーニャ家 スペイン語版 1847年 パラ家 スペイン語版 1847年 キロス家 スペイン語版 1847年 ナルバエス家 スペイン語版 1856年 スペイン語版 スペイン語版 1858年 アロスピデ家 スペイン語版 1859年 デル バジェ家 スペイン語版 1860年 オドンネル家 スペイン語版 1862年 カンプス家 スペイン語版 1865年 ファルコ家 スペイン語版 1868年 ホーセス家 スペイン語版 1871年 マルテル家 スペイン語版 1871年 ムンタダス プリム家 スペイン語版 1871年 メシーア家 スペイン語版 1871年 ムンタダス プリム家 スペイン語版 1875年 エリオ家 スペイン語版 1875年 ミトハンス家 スペイン語版 1876年 サンチェス ド トカ家 スペイン語版 1879年 ガルシア ロイゴリ家 スペイン語版 1882年 ドイツ語版 スペイン語版 1885年 パティーノ家 スペイン語版 1885年 ウォルフォード ホーキンス家 スペイン語版 1887年 ウォルフォード ホーキンス家 スペイン語版 1890年 フェルナンデス ビジャベルデ家 スペイン語版 1891年 ビラリョンガ家 スペイン語版 1901年 コルドバ家 スペイン語版 1902年 イルホ家 スペイン語版 1903年 ロヘンディオ家 スペイン語版 1904年 トゴレス家 スペイン語版 1906年 カリソサ家 スペイン語版 1906年 フィゲロア家 スペイン語版 1907年 フィゲロア家 スペイン語版 1907年 バレラ家 スペイン語版 1913年 カナレハス家 スペイン語版 1914年 ボルボン家 スペイン語版 1914年 ラ セルダ家 スペイン語版 1914年 スペイン語版 スペイン語版 1917年 ボルボン家 スペイン語版 1920年 ウェイレル家 スペイン語版 1921年 ロス モンテーロス家 スペイン語版 1930年 ペレス マウラ家 スペイン語版 1958年 デル アルカサル家 スペイン語版 1977年 フェルナンデス ミランダ家 スアレス公爵 スペイン語版 1981年 スアレス家 スペイン語版 1981年 ボルボン家 スペイン語版 1995年 ボルボン家 国民記憶法により廃止された公爵位 2022年10月 英語版 の施行により 以下の公爵位が強制的に称号廃止となった スペイン語版 1948年 カルボ ソテーロ家 スペイン語版 1948年 モラ家 スペイン語版 1948年 プリモ デ リベラ家 スペイン語版 1973年 空位 フランコ公爵 1975年 マルティネス ボルディウ家ロシアの公爵詳細は クニャージ を参照 帝政ロシアの ロシア語版 は17世紀以前のボヤール モスクワ大公国以前からの諸侯 に由来するものと 18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった ロシア貴族の称号は当初は公爵 クニャージ Knyaz knyaz しかなかったが ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位 グラフ graf graf イギリスと同じ男爵位 バロン baron baron を加えて爵位制度を作った また皇族の称号として大公 ヴェリーキー クニャージ Velikij knyaz があった 帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家 ロシア語版 ロプーヒン デミドフ家 カンテミール家 ロシア語版 ロシア語版 ロシア語版 ロシア語版 ロシア語版 ロシア語版 などがあった 帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し 勤務義務を負っていることだった その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため 官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき 1762年のピョートル3世の布告で廃止された 貴族の領地と農奴を私有財産として保障した1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが 実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた ロシア革命により貴族身分は廃止され ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害 抑圧されたが ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている 脚注 脚注の使い方 新村出編 広辞苑 第六版 岩波書店 2011年 942頁および松村明編 大辞林 第三版 三省堂 2006年 849頁参照 小田部雄次 2006 p 13 18 小田部雄次 2006 p 21 浅見雅男 1994 p 71 76 小田部雄次 2006 p 26 小田部雄次 2006 p 30 居相正広 1925 p 21 a b 百瀬孝 1990 p 242 小田部雄次 2006 p 56 小田部雄次 2006 p 57 小田部雄次 2006 p 18 酒井美意子 1982 p 47 小田部雄次 2006 p 49 小田部雄次 2006 p 65 浅見雅男 1994 p 34 浅見雅男 1994 p 116 117 百瀬孝 1990 p 37 a b c 内藤一成 2008 p 15 a b 百瀬孝 1990 amp p37 38 a b c d 小田部雄次 2006 p 45 百瀬孝 1990 amp p38 小田部雄次 2006 p 89 90 内藤一成 2008 p 42 原口大輔 2018 p 206 原口大輔 2018 p 206 207 a b c 小田部雄次 2006 p 29 a b c d 浅見雅男 1994 p 92 浅見雅男 1994 p 97 小田部雄次 2006 p 58 a b 華族大鑑刊行会 1990 p 10 華族大鑑刊行会 1990 p 16 華族大鑑刊行会 1990 p 11 華族大鑑刊行会 1990 p 23 華族大鑑刊行会 1990 p 13 華族大鑑刊行会 1990 p 4 華族大鑑刊行会 1990 p 6 華族大鑑刊行会 1990 p 14 華族大鑑刊行会 1990 p 22 毛利博物館 毛利邸 の歴史 毛利博物館 2021年9月12日 閲覧 華族大鑑刊行会 1990 p 15 華族大鑑刊行会 1990 p 24 華族大鑑刊行会 1990 p 18 華族大鑑刊行会 1990 p 17 華族大鑑刊行会 1990 p 21 華族大鑑刊行会 1990 p 20 a b 華族大鑑刊行会 1990 p 3 華族大鑑刊行会 1990 p 7 石黒ひさ子 2006 p 2 3 a b 石黒ひさ子 2006 p 3 石黒ひさ子 2006 p 5 石黒ひさ子 2006 p 4 石黒ひさ子 2006 p 6 a b 袴田郁一 2014 p 86 87 a b 袴田郁一 2014 p 95 袴田郁一 2014 p 93 a b 今堀誠二 p 422 423 袴田郁一 2014 p 100 袴田郁一 2014 p 98 袴田郁一 2014 p 103 a b 袴田郁一 2014 p 102 103 袴田郁一 2014 p 106 袴田郁一 2014 p 107 袴田郁一 2014 p 110 袴田郁一 2014 p 112 袴田郁一 2014 p 114 袴田郁一 2014 p 113 袴田郁一 2014 p 115 小林 1991 p 16 17 森 1987 p 5 森 1987 p 6 小林 1991 p 18 森 1987 p 7 8 森 1987 p 9 森 1987 p 11 12 a b 森 1987 p 15 前田英昭 1976 p 46 58 田中嘉彦 2009 p 279 290 成瀬治 山田欣吾 amp 木村靖二 1997 p 60 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1995 p 290 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1995 p 272 中野隆生 amp 加藤玄 2020 p 38 39 122 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1995 p 187 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1995 p 189 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1995 p 205 中野隆生 amp 加藤玄 2020 p 124 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1996 pp 128 129 中野隆生 amp 加藤玄 2020 p 166 a b 爵位 日本大百科全書 ニッポニカ コトバンクより2021年3月28日閲覧 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1996 p 156 上垣豊 1995 p 129 617 a b 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1996 p 419 a b 上垣豊 1995 p 130 618 柴田三千雄 樺山紘一 amp 福井憲彦 1996 p 458 山本浩三 1959 p 46 49 Eric Mension Rigau Enquete sur la noblesse La permanence aristocratique editions Perrin 2019 page 69 Marc Guillaume Directeur des affaires civiles et du Sceau 2006 Marc Guillaume Maitre des requetes au Conseil d Etat Directeur des affaires civiles et du Sceau Le Sceau de France titre nobiliaire et changement de nom Academie des Sciences Morales et Politiques seance du lundi 3 juillet 2006 成瀬治 山田欣吾 amp 木村靖二 1997 p 141 森井裕一 2016 p 92 93 森井裕一 2016 p 96 成瀬治 山田欣吾 amp 木村靖二 1996 p 222 230 成瀬治 山田欣吾 amp 木村靖二 1996 p 396 a b 坂東省次 2013 p 68 a b c d e f g h i j 関哲行 中塚次郎 amp 立石博高 2008 p 332 関哲行 中塚次郎 amp 立石博高 2008 p 346 坂東省次 2013 p 69 関哲行 中塚次郎 amp 立石博高 2008 p 419 坂東省次 2013 p 669 71 関哲行 中塚次郎 amp 立石博高 2008 p 315 a b 関哲行 中塚次郎 amp 立石博高 2008 p 370 https www boe es datos pdfs BOE 1931 153 A01122 01123 pdf https www boe es buscar act php id BOE A 1948 3512 Jefatura del Estado Ley 20 2022 de 19 de octubre de Memoria Democratica Madrid Agencia Estatal Boletin Oficial del Estado 33 34 20 October 2022 ISSN 0212 033X, ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム、モバイル、電話、Android、iOS、Apple、携帯電話、Samsung、iPhone、Xiomi、Xiaomi、Redmi、Honor、Oppo、Nokia、Sonya、MI、PC、ウェブ、コンピューター