ミシェル・ドゥブレ(フランス語:Michel Debré、1912年1月15日 – 1996年8月2日)は、フランスの政治家。フランス第五共和政が始まるシャルル・ド・ゴール政権にて初代(フランス首相)を務めた。
ミシェル・ドゥブレ Michel Debré | |
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生年月日 | 1912年1月15日 |
出生地 | フランス パリ7区 |
没年月日 | 1996年8月2日(84歳没) |
死没地 | フランス パリ |
出身校 | パリ政治学院 パリ大学 |
所属政党 | 共和国民主連合(UDR) |
配偶者 | アンヌ・マリー・レマレスキエ |
子女 | 4人 |
サイン | |
フランス 第3代(国防大臣) | |
在任期間 | 1969年6月22日 - 1973年3月28日 |
大統領 | ジョルジュ・ポンピドゥー |
フランス 第2代(外務大臣) | |
在任期間 | 1968年5月31日 - 1969年6月20日 |
大統領 | シャルル・ド・ゴール アラン・ポエール |
フランス 第4代(経済・財務大臣) | |
在任期間 | 1966年1月8日 - 1968年5月31日 |
大統領 | シャルル・ド・ゴール |
その他の職歴 | |
フランス 初代(首相) (1959年1月8日 - 1962年4月14日) |
生涯
1912年1月15日にパリ7区にて、医師であるの子として誕生する。父のロベールは元はユダヤ教徒であったが、結婚を機にカトリックに改宗したと言われる。名門のパリ政治学院とパリ大学を卒業する。
第二次世界大戦中はシャルル・ド・ゴールの同僚として活躍した。戦後はド・ゴール派に参加し、フランス国立行政学院(ENA, エナ)創設を主導した。1958年に司法相、1959年にフランス第五共和政初代首相、1966年に経済財政相(蔵相)、アンボワーズ市長(1989年まで)、1968年に外務大臣を歴任した。またド・ゴール辞任後にジョルジュ・ポンピドゥー政権にて国防大臣を務めた。
また、ドブレは行政権の強化を目指した第五共和政の基礎確立に努めた。パリ西部近郊ラ・セル=サン=クルーのラ・セル城に閣僚らと籠もり憲法草案を起草し、憲法評議会議長として憲法(1958年憲法と呼ばれる)制定に尽力した。
1981年フランス大統領選挙に立候補したが、第1回投票では1.66パーセントしか得票できず惨敗した。
家族
家庭的には、ドブレはヴァンサン、フランソワ、ベルナール、ジャン・ルイの4人の息子を儲けた。なお系譜については、ドブレ家も参照して欲しい。
外部リンク
公職 | ||
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先代 ピエール・メスメル | (フランス国防大臣) 第3代:1969年6月22日 - 1973年3月28日 | 次代 |
先代 モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル | (フランス外務大臣) 第2代:1968年5月31日 - 1969年6月20日 | 次代 モーリス・シューマン |
先代 ヴァレリー・ジスカール・デスタン | (フランス財政大臣) 第4代:1966年1月8日 - 1968年5月31日 | 次代 モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル |
先代 シャルル・ド・ゴール (第四共和政) | (フランス首相) 初代:1959年1月8日 - 1962年4月14日 | 次代 ジョルジュ・ポンピドゥ |
先代 | (フランス国民教育大臣) (暫定)1959年12月23日 - 1960年1月15日 | 次代 |
先代 | フランス建設・住宅大臣 (暫定)1958年 | 次代 |
先代 | フランス祖国・戦争被害担当大臣 (暫定)1958年 | 次代 - |
先代 | フランス司法大臣 1958年6月1日 - 1959年1月8日 | 次代 |
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