概要
![image](https://www.wikiquery.ja-jp.nina.az/image/aHR0cHM6Ly93d3cud2lraXF1ZXJ5LmphLWpwLm5pbmEuYXovaW1hZ2UvYUhSMGNITTZMeTkxY0d4dllXUXVkMmxyYVcxbFpHbGhMbTl5Wnk5M2FXdHBjR1ZrYVdFdlkyOXRiVzl1Y3k4d0x6QTJMMFZwYTJWZmRtOXVYMUpsY0dkdmQxOVBiR1JsYm1KMWNtZGxjbDlUWVdOb2MyVnVjM0JwWldkbGJDNXFjR2M9LmpwZw==.jpg)
![image](https://www.wikiquery.ja-jp.nina.az/image/aHR0cHM6Ly93d3cud2lraXF1ZXJ5LmphLWpwLm5pbmEuYXovaW1hZ2UvYUhSMGNITTZMeTkxY0d4dllXUXVkMmxyYVcxbFpHbGhMbTl5Wnk5M2FXdHBjR1ZrYVdFdlkyOXRiVzl1Y3k5MGFIVnRZaTh5THpKbUwxTmhZMmh6Wlc1emNHbGxaMlZzTG1wd1p5OHlNakJ3ZUMxVFlXTm9jMlZ1YzNCcFpXZGxiQzVxY0djPS5qcGc=.jpg)
ザクセンの騎士アイケ・フォン・レプゴウ(Eike von Repgow 1180頃 - 1233以降)によって1225年にまとめられた。当初はラテン語で記されていたが、ファルケン伯ホイアーの要請によってドイツ語に書き改められた。なお、本書は低地ドイツ語で書かれた最初の散文文書である。
内容
本書は4つの序文と(ドイツ語: Landrecht (Mittelalter))、(ドイツ語: Lehnrecht)の二部からなる本文によって構成される。 レプゴウは当時各所で発生していた法的問題の解決のために、それまで口頭で伝承されていた慣習法を文書化した。彼は本書をザクセン法に則って記述しようとしたが、実際は彼の生まれ故郷であるオストファーレンの法であるとされている。
影響
本書は法典とは異なり、私人の編纂による法記録でしかないが、中世以降のドイツ法に多大な影響をもたらした。 14世紀にはザクセンの裁判所で法典と同様に扱われ、本書を基に編纂された普通ザクセン法はザクセンでは(ドイツ語: Sächsisches Bürgerliches Gesetzbuch)の作られる1863年まで、プロイセンでは1794年の(ドイツ語: Allgemeines Landrecht für die Preußischen Staaten)まで、テューリンゲンなど一部の地域では1900年のドイツ民法典の成立まで効力を持っていた。
邦訳
- 金澤理康 訳『ザクセン・シュピーゲル ―ラントレヒト―』早稲田大学法学会〈早稲田法学 別冊 第8巻〉、1937年6月。
- 金澤理康 訳『ザクセン・シュピーゲル ―レーンレヒト―』早稲田大学法学会〈早稲田法学 別冊 第9巻〉、1939年9月。
- 久保正幡・石川武・直居淳 訳『ザクセンシュピーゲル・ラント法』創文社〈西洋法制史料叢書 4〉、1977年10月 。
脚注
- ^ ヴォルフガンク・ハルトゥング 『中世の旅芸人 奇術師・詩人・楽師』 法政大学出版局(東京)、2006年、p. 187
- ^ アイケ・フォン・レプゴウ著、久保正幡ほか訳 『ザクセンシュピーゲル・ラント法』 創文社(東京)、1977年、p. 23
- ^ 緒方勇ほか編 『歴史学事典 第9巻 法と秩序』 弘文堂(東京)、2003年
- ^ 序文178行 - 183行 ザクセン(人)の鏡と この書物は名づけられるべきである、 けだしザクセン法が これにより明らかに知れること、あたかも鏡によって婦人たちが そのかんばせを視るようであるから(レプゴウ、p. 12)。
- ^ ハインリヒ・プレティヒャ『中世への旅 都市と庶民』白水社、2023年、p.148
- ^ レプゴウ、p. 384
- ^ レプゴウ、p. 385
外部リンク
- 『ザクセンシュピーゲル』 - コトバンク
- 『ザクセン・シュピーゲル』 - コトバンク