サッカー日本代表(サッカーにほんだいひょう、サッカーにっぽんだいひょう)は、日本サッカー協会(JFA)によって編成される日本の男子サッカーのナショナルチーム。「A代表」や「フル代表」とも呼ばれる。愛称はSAMURAI BLUE(サムライブルー)。
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国または地域 | | |||
協会 | 日本サッカー協会 | |||
FIFAコード | JPN | |||
愛称 | SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー) | |||
監督 | | |||
キャプテン | 遠藤航 | |||
最多出場選手 | 遠藤保仁(152試合) | |||
最多得点選手 | 釜本邦茂(75得点) | |||
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初の国際試合 | ||||
![]() (東京, 1917年5月9日) | ||||
最大差勝利試合 | ||||
(東京, 1967年9月27日) | ||||
最大差敗戦試合 | ||||
(東京, 1917年5月10日) | ||||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 7回(初出場は1998) | |||
最高成績 | ベスト16 (2002, 2010, 2018, 2022) | |||
AFCアジアカップ | ||||
出場回数 | 10回 | |||
最高成績 | 優勝 (1992, 2000, 2004, 2011) | |||
2018年7月より森保一が監督を務めている。FIFAワールドカップには7度出場しており、最高成績はベスト16。ノックアウトステージ進出回数は4回でアジア勢最多。AFCアジアカップでは通算4度の優勝を果たしている。
概要と特徴
チームカラー
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ユニフォーム青統一版 |
現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは、後付の説明で採用時の正確な理由は日本サッカー協会に資料が現存せず、不明のままである(日本サッカー協会公式見解)。
日本代表にとって初の国際試合となった1917年の極東選手権競技大会サッカー競技では、東京高等師範学校(現:筑波大学)が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した。1930年の極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学は淡青(ライトブルー)のシャツであった。1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表は1930年の極東選手権の代表チームと同じ淡青のシャツを採用し、それ以降もチームカラーとして青が定着することになった。
1964年東京オリンピックのサッカー競技では、上下共に白、1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技では白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により、日本代表のユニフォームは日本の旗「日の丸」の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸(1980年代半ばからは右下に青字の「J.F.A.」の文字が入る)ではなく三本足の八咫烏(やたがらす)が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山が監督を更迭されると、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され現在も続いている。
歴代ユニフォーム
ファーストユニフォーム
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1930 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1950-75 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1979-80 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1980-83 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1984-85 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1985 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1983-86 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1986-87 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1988-92 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1992 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1992-95 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1996–98 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1998–99 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1999-2000 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2001 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2002-03 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2004-05 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2005-07 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2008-09 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2009-11 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2012-13 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2013-15 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2015-2017 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2017.06.07 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2017-2019 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2020-2022 |
セカンドユニフォーム
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1998–99 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1999-2000 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2001 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2002-03 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2004-05 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2006-07 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2008-09 |
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愛称
2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けた愛称にすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式の愛称とすると定められた。
マスメディアでは、横山が代表監督となった際に「横山ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられている[]。フィリップ・トルシエの代表監督時代は、「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた。これについてセルジオ越後は「代表チームは国民の代表であって、監督のものではない。だから、僕が監督だったら何があってもセルジオジャパンとは呼ばせない」と自著で述べている。
海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」、「ブルーズ」という愛称もある。
マスコット
三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクター。デザインは、松下進が行った。チームユニフォームのデザインが変更される度に、2匹のユニフォームもそれに合わせて手直しされている。
日本代表グッズ
日本サッカー協会は、1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技(「ベルリンの奇跡」の大会)へ日本代表を派遣する費用のうち、日本サッカー協会から支給される旅費以外の経費3万円を調達するため、浴衣地や手拭の販売など積極的に募金活動をした。これを端緒にのちの「日本代表グッズ」へつながり、現在はレプリカユニフォームやタオルマフラーなどが販売されている。
FIFAランキング
2024年6月24日時点で17位(アジア勢でトップ)
プレースタイル
最初期の日本のプレースタイルであったショートパス戦法は1920年(大正9年)頃から日本国内で指導し、1923年(大正12年)8月には『How to play association football』という日本語版の指導書を出版したチョウ・ディンによりもたらされた。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった。
1960年代から1970年代の代表チームのFWであった釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される。
悪質なファウルなどが少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。FIFAワールドカップにおいては、初出場以来連続全25試合でレッドカードが0という歴代最多連続記録を持っており、FIFAも公式HP内で紹介している(2022年カタールワールドカップ決勝トーナメント1回戦クロアチア戦終了時現在。FIFAワールドカップにおける記録も参照)。
また初出場が1998年と比較的新興チームであるものの、7大会連続出場のうち4回決勝トーナメントに勝ち進んでおり、近年は比較的安定した成績を見せている。また、初出場から7大会連続出場は、全ての大会に出場しているブラジルに次ぐ歴代2位の記録となっている。
日本代表監督
プロ化前
ハンス・オフトより前の歴代日本代表監督は、アマチュア全国リーグJSLからの出向だったので、その給料は所属企業が全て支払っており、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAからは給料も手当も受け取っていなかった。従って、JFAは日本代表監督候補者に就任する前に「日本代表監督を辞めた後、企業に戻れる確約を得てから就任するよう」求めていた。JFAに選手待遇改善要求を行い、実現させた(後述)森孝慈ら日本代表コーチ陣に対しては、日本体育協会からコーチング料月額数十万円が支払われたが、JFAからの報酬は一切無かった。因みに、デットマール・クラマーのJFAでの公式の肩書は顧問(アドバイザー)であり、西ドイツサッカー連盟(現ドイツサッカー連盟)から給料が支払われ、JFAからの報酬は原則無かった。
プロ化後
初のプロ監督で、初の外国人日本代表監督(注:クラマーは顧問)のハンス・オフトの年俸は約7000万円であった。オフト監督はドーハの悲劇後、辞任した。ドーハの悲劇後、ファルカンが日本代表監督に年俸約1億2000万円で就任した。ファルカンの解任後、日本代表監督に就任した加茂周の年俸は約7000万円だった。加茂監督は1998年仏W杯アジア予選途中で解任され、岡田武史(第1期1997-98)が年俸約5000万円で日本代表監督に就任し1998年仏W杯まで指揮した。
1998 FIFAワールドカップ後、日本代表監督に就任し日韓W杯まで指揮を執ったフィリップ・トルシエの年俸は約9000万円で、日本代表初のW杯ベスト16(=決勝トーナメント進出)の快挙を成し遂げた。日韓W杯後、2006年ドイツW杯まで指揮したジーコの年俸は約2億2000万円だった。
2006年ドイツW杯後、日本代表監督に就任したイビチャ・オシムの年俸は約9000万円だった。しかし、オシムが2007年11月16日に脳梗塞で倒れたため(後に回復)退任し、急遽岡田(第2期2007-10)が年俸約8000万円で二度目の日本代表監督に就任、2010年南アフリカW杯まで指揮し日本代表二度目のW杯ベスト16(=決勝トーナメント進出)の成績を収めた。
2010年南アフリカW杯後、アルベルト・ザッケローニが年俸約2億5000万円で日本代表の監督に就任し、2014年ブラジルW杯まで指揮を執った。ブラジルW杯後、ハビエル・アギーレが年俸約2億円で日本代表監督に就任したが、スペインのクラブ監督時代の八百長疑惑により2015年2月3日契約解除となった。同年3月12日、ヴァイッド・ハリルホジッチが年俸200万ドル(約2億7000万円)で日本代表監督に就任した。ハリルホジッチは、2018年ロシアW杯まで指揮する予定であったが2018年4月7日に解任され、同年4月9日に西野朗JFA前技術委員長が日本代表監督に年俸約1億2500万円 で就任した(同年4月7日までに西野はJFA理事、JFA技術委員長、Jリーグの理事を辞任)。任期はロシアW杯後の7月31日まで で、ロシアW杯ベスト16の成績を残した。任期満了で退任する。在任期間はわずか3カ月23日(114日)間で、日本代表選手との帯同期間は5月21日の合宿から7月5日の帰国会見までのわずか46日間であった。なお、U-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保一は西野の日本代表監督就任に伴い、日本五輪代表監督を兼任したままロシアW杯まで日本代表コーチを務めていた。
2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督の森保が、日本五輪代表監督を兼任したままロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で日本代表監督に年俸約1億5000万円 で4年契約で就任した(なお、東京五輪男子代表監督就任時の年俸は4800万円だった)。日本A代表監督と日本五輪代表監督を兼任するのは、トルシエ以来である。初の外国人日本代表監督のオフト以降では、W杯後の新日本代表発足時に日本人監督が就くのは初めてである。
その後、森保はAFCアジアカップ2019で準優勝、2022年カタールW杯では通算4度目となるベスト16に導いた。2022年12月28日、JFAは森保の続投を発表した。契約期間は2026年北中米W杯まで。W杯本大会で指揮を執った監督が続投するのは日本代表史上初である。
歴代監督の一覧
- :代行監督
- 試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしており、試合数が0の監督がいるのは指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである
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2022年12月5日現在
名前 | 国籍 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 期間 | 主な大会 |
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(不明) | (不明) | 0 | 0 | 0 | 0 | 1917年 | 1917FEG |
佐々木等 | ![]() | 0 | 0 | 0 | 0 | 1921年 | 1921FEG |
西田満寿次郎 | ![]() | 2 | 0 | 0 | 2 | 1923年 | 1923FEG |
山田午郎 | ![]() | 2 | 0 | 0 | 2 | 1925年 | 1925FEG |
(不明) | (不明) | 2 | 1 | 0 | 1 | 1927年 | 1927FEG |
土橋 | (不明) | 0 | 0 | 0 | 0 | 1927年 | - |
鈴木重義 | ![]() | 2 | 1 | 1 | 0 | 1930年 | 1930FEG |
竹腰重丸 | ![]() | 3 | 1 | 0 | 2 | 1934年 | 1934FEG |
鈴木重義 | ![]() | 2 | 1 | 0 | 1 | 1936年 | 1936OG |
竹腰重丸 | ![]() | 1 | 1 | 0 | 0 | 1938年 - 1940年 | - |
工藤孝一 | ![]() | 0 | 0 | 0 | 0 | 1942年 | - |
二宮洋一 | ![]() | 3 | 1 | 1 | 1 | 1951年 | 1951AG |
竹腰重丸 | ![]() | 12 | 2 | 4 | 6 | 1951年 - 1956年 | 1954WC予、1954AG、1956OG予、1956OG |
高橋英辰 | ![]() | 0 | 0 | 0 | 0 | 1957年 | - |
川本泰三 | ![]() | 2 | 0 | 0 | 2 | 1958年 | 1958AG |
竹腰重丸 | ![]() | 12 | 4 | 2 | 6 | 1958年 - 1959年 | 1960OG予 |
高橋英辰 | ![]() | 14 | 3 | 2 | 9 | 1960年 - 1962年 | 1962WC予、1962AG |
クラマー | ![]() | 1 | 0 | 0 | 1 | 1960年 | 1962WC予 |
長沼健 | ![]() | 31 | 18 | 7 | 6 | 1962年 - 1969年 | 、1966AG、1968OG予、、1970WC予 |
岡野俊一郎 | ![]() | 0 | 0 | 0 | 0 | 1969年 | - |
岡野俊一郎 | ![]() | 19 | 11 | 2 | 6 | 1970年 - 1971年 | 1970AG、1972OG予 |
長沼健 | ![]() | 42 | 16 | 6 | 20 | 1972年 - 1976年 | 1974WC予、1974AG、1976AC予、1976OG予 |
二宮寛 | ![]() | 27 | 6 | 6 | 15 | 1976年 - 1978年 | 1978WC予、1978AG |
下村幸男 | ![]() | 14 | 8 | 4 | 2 | 1979年 - 1980年 | 1980OG予 |
渡辺正 | ![]() | 3 | 2 | 0 | 1 | 1980年 | - |
川淵三郎 | ![]() | 10 | 3 | 2 | 5 | 1980年 - 1981年 | 1982WC予 |
森孝慈 | ![]() | 43 | 22 | 5 | 16 | 1981年 - 1985年 | 1982AG、1984OG予、1986WC予 |
石井義信 | ![]() | 17 | 11 | 2 | 4 | 1986年 - 1987年 | 1986AG、1988OG予 |
横山謙三 | ![]() | 24 | 5 | 7 | 12 | 1988年 - 1992年 | 1990AG、1990WC予 |
オフト | ![]() | 27 | 16 | 7 | 4 | 1992年 - 1993年 | 1992AC、1994WC予 |
ファルカン | ![]() | 9 | 3 | 4 | 2 | 1994年 | 1994AG |
加茂周 | ![]() | 46 | 23 | 10 | 13 | 1994年 - 1997年 | 1995IC、1996AC、1998WC予 |
岡田武史 | ![]() | 15 | 5 | 4 | 6 | 1997年 - 1998年 | 1998WC予、1998WC |
トルシエ | ![]() | 50 | 23 | 16 | 11 | 1998年 - 2002年 | 1999CA、2000AC、2001CC、2002WC |
ジーコ | ![]() | 71 | 37 | 16 | 18 | 2002年 - 2006年 | 2003CC、2003FEC、2004AC、2005CC、2005FEC、2006WC予、2006WC、2007AC予 |
山本昌邦 | ![]() | 1 | 0 | 0 | 1 | 2002年 | - |
オシム | ![]() | 20 | 12 | 5 | 3 | 2006年 - 2007年 | 2007AC予、2007AC |
岡田武史 | ![]() | 49 | 26 | 12 | 11 | 2007年 - 2010年 | 2008FEC、2010WC予、2010FEC、2011AC予、2010WC |
大木武 | ![]() | 1 | 0 | 1 | 0 | 2009年 | 2010WC予 |
原博実 | ![]() | 2 | 2 | 0 | 0 | 2010年 | - |
ザッケローニ | ![]() | 55 | 30 | 12 | 13 | 2010年 - 2014年 | 2011AC、2013CC、2013FEC、2014WC予、2014WC |
アギーレ | ![]() | 10 | 7 | 1 | 2 | 2014年 - 2015年 | 2015AC |
ハリルホジッチ | ![]() | 38 | 21 | 9 | 8 | 2015年 - 2018年 | 2015FEC、2018WC予、2017FEC |
西野朗 | ![]() | 7 | 2 | 1 | 4 | 2018年 | 2018WC |
森保一 | ![]() | 62 | 41 | 9 | 12 | 2018年 - | 2019AC、2019CA、2022WC予、2019FEC、2022FEC、2022WC、2023AC |
- ^ 姓のみ判明。名は不明。日本サッカー協会公式サイト より。
- ^ クラマーは高橋英辰の監督時代にコーチとして指揮。
- ^ 岡野俊一郎は長沼健の監督時代に監督代行として指揮。
- ^ 山本昌邦はジーコの監督時代に監督代行として指揮。
- ^ 大木武は岡田武史の監督時代に監督代行として指揮。
- ^ 原博実はザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、監督代行として指揮。
- ^ 2014年9月9日に横浜国際総合競技場で行われた『キリンチャレンジカップ』(国際親善試合)ベネズエラ戦は2-2で引き分けとなったものの、ベネズエラが同9月5日に行われた韓国戦でレッドカードを受けて退場処分となり、次戦に当たる当該試合に出場出来ないFWのホセ・サロモン・ロンドンを出場させていたため、FIFAの公式記録では没収試合の扱いとなり、日本が3-0で勝利したと記録される。日本協会における公式記録の結果も訂正されたが、出場選手や得点者の記録はそのまま残る。
日本代表選手
プロ化前
プロ化される以前の日本代表選手は前述の通り、JFAが長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。アマチュア全国リーグJSL所属の選手がほとんどで、所属企業での給料以外受け取っておらず、有給休暇を使って日本代表活動をこなし、その諸費用も自費で賄っていた。1970年メキシコW杯アジア・オセアニア予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(公式の肩書は顧問)のデットマール・クラマーが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。
1972年5月、ペレが所属するブラジルのサントスFCが来日し日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。このため、当時日本代表だったジョージ小林が日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だったため、断られた。その後、(JFAの財政基盤確立への様々な取り組み)の結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3000円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった。同時に宿泊施設についても改善された。1993年5月15日のJリーグ開幕より以前に、ブラジルから帰国した三浦知良、日本に帰化したラモス瑠偉ら当時の日本代表選手たちがJFAに待遇改善を訴え、日当と勝利給が支給されるようになったものの、出場給は存在しなかった。
プロ化後
日本プロサッカーリーグ発足後は、当時の日本代表メンバーの武田修宏のコメントによると1993年10月28日のドーハの悲劇(1994年アメリカW杯アジア最終予選)の頃の日当は9000円だったという。日本は、1994年アメリカW杯アジア最終予選第2戦イラン戦で1-2で敗戦、最下位に転落した。そこで第3戦から川淵三郎強化委員長(当時。現JFA技術委員会)が独断で勝利ボーナスとして50万円を支払うこととし、第4戦終了後に日本は1位となるなど一時は持ち直した(結局、日本は第5戦イラク戦の2-2の引き分けで、最終順位は3位)。以後は日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。
日本代表選手への報酬総額は年々アップしている。1994年米W杯アジア予選の際には、JFAは2億円を用意していた。JFAは米W杯アジア予選の2倍の4億円(出場時間に応じて配分。1人最高1000万円)を仏W杯アジア予選で計上し、日本代表W杯初出場を果たした。
開催国だったため、アジア予選に出場しなかった2002年日韓W杯ではJFAは本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。
2005年時点では試合だけでなく、合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、FIFAワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。AFCアジアカップ2004で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め、全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。
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2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会が200万円、W杯アジア予選・アジアカップ本大会・コンフェデ杯が30万円(2012年11月16日から50万円)、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧東アジアカップ)・アジアカップ予選・キリンカップ・FIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円(2012年11月16日からFIFAランクに関係なく親善試合は一律20万円)、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスもW杯本大会は優勝5000万円が最高額で、2位3000万円、3位2000万円、4位1000万円、ベスト8で800万円、ベスト16(=ノックアウトステージ進出)で600万円、コンフェデ杯は優勝300万円、2位150万円、3位100万円、アジアカップ本大会は優勝200万円、2位100万円、3位50万円、EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ(旧東アジアカップ)は優勝100万円、2位50万円、3位25万円というように、各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上の大会ボーナスを出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている。
日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会(旧強化委員会)で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。2010 FIFAワールドカップ・アジア予選では出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて犬飼基昭JFA会長(当時)は「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と自ら述べている。2010 FIFAワールドカップでは「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた。
大会ボーナスなど日本代表選手に支払われる賞金(報奨金)には、税金がかかる。海外リーグ所属の選手はその国の税法に基づき税金をその国に納める。Jリーグ所属選手の場合、例えば、賞金平均額の約1304万円を獲得した選手は、獲得した賞金は全て「一時所得」となり、得た金額から特別控除額50万円を差し引いた額の50%の約627万円が課税対象となる。
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なお、オリンピック(男子本大会はU-23+オーバーエイジ3人まで、女子は年齢制限なし女子A代表)の賞金は、成績に応じてJFA及び日本オリンピック委員会(JOC)の2団体からそれぞれ支払われ、所得税法9条1項14号の規定 及び2010年の税法改正により、それぞれの五輪の賞金については非課税である(JOC加盟のJFA及びJOCからの五輪賞金のため。ただし、設定された非課税枠を超えた分は、課税)。JOCがメダリストに支払う報奨金は、2016年リオ五輪で金メダル500万円(2012年ロンドン五輪300万円)、銀メダル200万円、銅メダル100万円であり、個人競技、団体競技に関係なく1人あたりに支払われる。東京五輪ではさらに増額する予定である。JOC加盟団体であるJFAからの日本五輪代表(男女とも)に対する賞金は、金メダル150万円、銀メダル100万円、銅メダル50万円で、勝利給が30万円、優勝ボーナスは1人500万円である。
2010年12月17日、日本プロサッカー選手会 (JPFA) が日本代表の親善試合の勝利給は20万円程度とJ1各クラブの勝利給の半分以下で、ハードな日程の中で招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日の2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選のB組第7節ヨルダン戦から実施された。
W杯出場日本代表選手対象年金
2018年2月2日、田嶋幸三JFA会長がW杯出場日本代表選手対象の年金制度を創設すると発表した。日本代表等JFAの放映権料を原資とし、毎年3 - 5%を積み立てる案がある。日本プロサッカー選手会とも話し合い、早ければ2019年度の予算から組み込む予定である。
定義
世界的に、また日本の記録集においても代表選手とは「国際Aマッチでの出場経験選手」を条件とし、その出場回数をキャップ数という。しかし、個々の選手を定義する場合、選出されながらも出場しなかった場合などでは意見が分かれる。また黎明期には日本代表がヨーロッパや南米のクラブチームと対戦した例も多く、その扱いも定まっていない。日本サッカー協会関係者[]は、明確な基準はなく、また時代とともにルールや環境が変わっている点を指摘し、以下の場合でも選手を「元日本代表」としてもよいのではと話している。
- ワールドカップやアジアカップの本選や予選などFIFA公式戦で日本代表に選出されたが出場機会がなかった。
- 国代表との親善試合で選出されたが出場機会が無かった。
- 対戦相手がクラブチームなど代表でなくとも、日本代表として選出された。
放映権料及び親善試合等の費用
2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である。なお、ワールドカップアジア最終予選の放送権やマーケティング権がJFAにないため(つまり、JFAにW杯アジア最終予選放映権収入なし)、ワールドカップ本大会前年のJFA収益は下がる傾向にある。
2014年時点では、日本代表が国内親善試合を申し込む際にJFAが対戦国に支払う出場給は強豪国で2-3億円で、移動費(飛行機代含め)、宿泊費等も全てJFAが負担する。例えば、2014年のFIFAランク1位のドイツや同年のFIFAランク9位のスペインなどFIFAランク上位国を日本に呼ぶ場合は、上記よりさらに費用がかかる。
歴史
第二次世界大戦以前
大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は1921年9月10日に設立され、1929年5月17日の第18回FIFAバルセロナ総会で国際サッカー連盟(FIFA)加盟が承認された。
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最初の国際試合は、1917年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会の中華民国戦(5月9日)で、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、2-15と大敗した。これは現在も、日本代表における対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合でもあった。
1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年の第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。
1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。
1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合であった。
1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まるはずだったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。
戦中
1913年から開催され、サッカー日本代表も1917年の第3回から参加した極東選手権競技大会は大会を主催する極東体育協会に満州国を参加させようとした日本と拒否する中華民国の対立により1934年の第10回大会を最後に幕を閉じた。そのため日本は新たに東洋体育協会を設立し「東洋選手権競技大会」を開催しようとしたが、各国の思惑等により進展せず、1937年の日中戦争開戦により中止となった。
その後は1939年に日本・満州・中華民国臨時政府の参加により開催された日満華交歓競技大会や、開催権を返上した東京五輪に代わり開催された東亜競技大会(1940年・1942年の2回開催)で実施されたサッカーに日本代表も出場している。
戦後から1990年代まで
第二次世界大戦後の1945年11月13日に、大日本蹴球協會は会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。
1947年4月1日に、大日本蹴球協會から日本蹴球協会へと名称を変更し、1950年9月23日にFIFAに再加盟した。
1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は本来、ホーム&アウェイ方式で行われるはずが韓国大統領の李承晩はたった日本から独立したばかりの韓国が日本に負けること恐れたため、自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催ではあったが1分1敗となり、出場を逃した。
1950年代から60年代の日本は、アマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手(現日本代表選手)であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという。この時期、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。
1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。